喪失家族からのメッセージ

(第3回小児がん・脳腫瘍全国大会内のイベント『エスビューローの原点にビリーブメントケアがあった!』より抜粋しました。)

当事者からのメッセージ1 −代表理事 安道照子

エスビューローの代表の安道と申します。いま事務局長の方から話がありましたように、私も喪失家族でして、ちょうど昨日エスビューロー10周年記念の懇親会をさせていただいたのですが、エスビューローが10周年ということは、私の子どもが亡くなって10年経つということなんです。10年前に私の長男は5歳5カ月で白血病で他界しました。

私は今はこんな風にお話させていただいていますけれど、子どもが亡くなった当初は外へ出るときは、サングラスをかけて帽子をかぶって・・・、悪いことをしているわけでは勿論ないんですが、何ていうんでしょう、すごく親しい人は分かってくれてるからいいんですが、中途半端に顔みしりの方の視線が・・・何だか私を見ると目をそらされるんですよね。それがすごく嫌で、もちろん向こうも悪気があるわけじゃないことはわかってはいます。「きっと声をかけにくいんだろうな」「どんなふうに会釈したらいいのかわからないんだろうな」と勝手に思うがあまり、やっぱり下を向いて帽子をかぶって、いつもの私を知っている方は想像つかないと思うのですが、そうせざる得なくなるというか・・・。

そしてそれがこうじて自宅から3分ほどの一番便利なスーパーには10年来行けないというか絶対行かない!!と意地になるくらい近所づきあいが一番苦痛でした。それと言うのも娘の小学校で、弟はまだ小さかったので姉の小学校には縁はなかったのですが、娘の担任が変な気を使ったんでしょうか?「安道涼菜さんの弟さんが白血病で亡くなった」という連絡を受けどういうわけか学校中に「葬儀に行ってあげてください」というようなことが書かれたものが配られたと後から聞きました。わざわざ自宅から遠い葬儀会館にしたにも関わらず『どうしてこんなに、知らない人がいっぱいなの?』・・・と、何だか見に来られたような感じがして本当に嫌だった事を思いだします。それもあって特に外に出られないというか、逃げ隠れするようにとにかく急いで近所近辺から脱出し、出たら帽子やサングラスを全部取ってエスビューローしています!というような感じの生活が続いてました。

私の子どもが亡くなり四十九日が終わったころ、ちょうど「小児がん学会」があるというので、安井さんがとにかく学会へ一緒に行こうという事で・・・、そんな所へ行ってどうするの?とは思ったんですが、じゃあ二人で行くとこはどこかと思うと、ランチするとか映画に行くとかっていう気持ちには、まったくなれないので、やっぱり出かける所ってそういうとこかな〜ということで引きずられて行きました。

それまで私が家にいる間は、朝主人と娘を会社と学校に送りだした後に、彼女が尋ねて来てくれる!と思うので、ちょっとはきちんと出来たというか、生活が。ですから彼女が来れない日は、皆が出て行った後すぐ家の電気をばーっと全部消して娘が学校から帰るギリギリまでめちゃくちゃ暗くして泣いたり、いろんなことを考えたりしてました。それが彼女が来る日はそれなりに昔の私のように、子どもを亡くす前の私に戻れて、二人でそれこそお昼を食べながらいろんな話をするんです。入院中のいろんなエピソードを思い出して泣いたり笑ったりできました。その会話の中、ほんとにたわいない会話の中ではありますが、私たちは二人で毎日毎日会って話ができるけれども、当時の阪大病院では本当に何十人と時期が悪かったのか、亡くなっていきました。その状況のもと子どもを亡くした仲間のお母さん達ってみんなすごく孤独で辛い思いをしているんじゃないかな?ということが話にあがりました。じゃあ我々と同じ目にあったみんなに会いに行こう、とか、寝食ともにしてきた研修医の先生のために回顧録でも作ってみようとか、私たちが子どもを亡くした後に救われた本をみんなに手渡しに行こうだとか、そういう漠然とした思いつきをいっぱい話した気がします。

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当事者からのメッセージ 2 -副代表理事 安井美喜

うちの子は1歳3カ月のときに、神経芽細胞腫を発症しました。6ヵ月半の闘病を経まして1歳9ヶ月の時に永眠いたしました。 喪失後のストレスということですけども、彼は1歳9カ月しか生きておりませんので、ほとんど交友関係は家族だったり親戚関係の中でしかありませんでした。しかし、お葬式の時にまったく彼を知らない人たちがたくさん、お付き合いだけでお葬式に来て下さいました。わたしは来ていただくことも有難いと思わないといけないなと思ったんですけども・・・。

うちの子は1歳3カ月のときに、神経芽細胞腫を発症しました。6ヵ月半の闘病を経まして1歳9ヶ月の時に永眠いたしました。

喪失後のストレスということですけども、彼は1歳9カ月しか生きておりませんので、ほとんど交友関係は家族だったり親戚関係の中でしかありませんでした。しかし、お葬式の時にまったく彼を知らない人たちがたくさん、お付き合いだけでお葬式に来て下さいました。わたしは来ていただくことも有難いと思わないといけないなと思ったんですけども・・・。お香典も遠慮させていただきましたが、「そらあそうやわな、1歳9カ月しか生きてないのに香典なんかいらんわな」という声があったと後で聞きました。

法要のお供えにはビールを頂きました。例年ビールをくださるから子どもの時でもビールを下さるとか・・・。こんな、わたしたちの為にして下さっているはずなのに、まったく亡くなった子どもを無視したような葬儀や法要のやり方に、とても複雑な気持ちと抵抗を感じました。 また、励ましの言葉として「あんたまだ若いんやからそんなこと忘れて次を生みや」と言葉を下さる方々がいたのですが、それが一番つらかったです。この世からなかったものとして扱われる、抹消されようとしているからです。もちろん私を励まそうと親切心で言ってくださっているのですが・・・。

いままで6ヵ月半病院で闘病してきましたけども、やっぱり彼を一番知ってくれているのは、 一緒に頑張ってくださった先生とか看護師さんだと思いました。しかしこの死亡したことによって一切病院とは断ち切られた感じになってしまったことが「本当に亡くなってしまったら終わりなんだな」という気持ちになり、これも同じような意味でつらかったところです。 また、上に幼稚園のお姉ちゃんがいましたので、以前と同じように参観日に行ったりだとか、日曜日だったら遊びに連れていったりする事、人ごみの中もとにかく嫌で、本当にもう、今までのように普通に生活をすることに苦痛を感じていました。

安道と私は闘病中は殆ど同じ部屋ですごしていまして、先にうちが亡くなりましたけれども、その後もずっと毎日のように安道の家に通うようになりました。そのなかでは、病院の、「こうやったね、ああやったね、」「辛いこともあったけど、頑張ったよねえ」とか、先生の悪口も含め当時の事をいろいろ話しました。そういう話をすると当然決まって涙するのですが、二人で話している時、泣いている時、必ず自分の息子たちが、ここにいる!と思えました。ほんとうにいつも、気持ちがシクシクシクシクしてて、ほっとけばそれがどうなってしまうか分からないような気持ちなんですけれども、話しているとその中で泣きながらも気持ちを共有させることができ、「ホッ」と明るい・・・なんというか気持ちのなかに「ふわーん」と明るいものがあるのを感じるんですよ。それが力となって前に進めてきたなーって・・・。普段は泣いているけれど、一瞬だけでもその時は心から笑ってたり出来るんですよね、2人だと。それが実はすごい力になって、少しずつ前に歩けてきたような気がします。それがいまエスビューローという形となって、現在に至らしていただいています。

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当事者からのメッセージ 3 -Yさん

私は自分が生きてしまったということにストレスを感じて、“生きるとは何か?”“死ぬとは何か?”ということを考える日々がずっと続きました。家族や友達も言葉を選んで話しかけてくれているとは思うものの、心の中で”私の気持ちは分かるはずがない”と、拒否をして過ごしていた時期が長くありました。
ちょうど子どもが亡くなった時に『千の風になって』の唄が流行っており、私の家にもあちこちから送られてきました。でも歌詞の中で「泣かないでください」とあるんですが、“泣かないわけないでしょ!”って思っていました。死んだ子どものことを思って泣くから私は生きているんだと思って、その歌のこともずっと嫌いでした。ただ、今はその歌詞の中にあるように、千の風になってあちこち行っているんだなと思って、そして今日も多分ここにいると思っています。

私は高知だったので、闘病仲間っていうのが本当にいませんでした。約5年間の闘病のうち、阪大病院に入院していたのが約2か月だったので、ほとんどが高知でした。高知では完全個室で、同じような病気の子もほとんどいないということもあり1人です。

亡くなった後はさっき言ったようにすべてを拒否してきましたが、その中でわたしの心の支えはエスビューローでした。安道さんや安井さんと話すことで、同じ気持ちの人と話ができ、それが私にとってよかったです。高知の友達と話す時と、安道さんや安井さんと話した時は、同じ内容を話していても、高知では心から笑えないことがこっちに来たら同じ経験をした同じ仲間だっていうことで、いつも大阪にきたら笑ってすごしています。いまもひとりになったら突然思い出したりしてグッときたり、ぐわーっとくることもあるんですが、昨日もこのメンバーで終わったあと、夜もゲラゲラ笑いながら夜を過ごしてしまいました。これで高知に帰ってまた1年間、頑張れるなと思っています。

喪失した直後はものすごく周囲を拒否して、周りの人はものすごく言葉を選んで私を慰めようと言ってきた気持ちにさえ私は、“どうせ私の気持ちは分からないから”と拒否してしまっていました。私もたぶんこの経験がなかったら、同じことを言っただろうし、傷つけるつもりはないのに、傷つけることをどんどん言ってしまっただろうと思います。だからまず、そういうことを思うことをやめようということと、あとは安井さんや安道さんのように私にもできることが何かあるんじゃないかと思っています。私が色々な方にしていただいたように、今度はいま闘病でしんどい思いをしている家族の方の力になりたいと思っています。

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