第5回小児がん脳腫瘍全国大会
『碑文谷さんと考えよう! 葬儀の原点とグリーフワーク』

「ロス・カレッジ2DAYセミナー」の2日目は葬送ジャーナリストの碑文谷創さんをお迎えし、
子どもの葬儀や供養に関する様々な疑問にお答えいただきました。

碑文谷さん
碑文谷 創(ひもんや はじめ)

1946年、岩手県に生まれる。葬送ジャーナリスト。出版社勤務を経て、1990年表現文化社を設立。雑誌「SOGI」の編集長を務めるかたわら、死や葬送関係に関する評論活動をテレビ・新聞・雑誌などで展開。著書には『死に方を忘れた日本人』(大東出版社)、『「お葬式」はなぜするの?』(講談社)等がある。


葬儀・法要について
Q1.子どもを失った親にとって葬式や法要はとても大きなストレスとなります。なぜそれをしないといけないのか分かりません。そもそもお葬式というのは何のためにするものなのでしょうか?
Q1.
子どもを失った親にとって葬式や法要はとても大きなストレスとなります。
なぜそれをしないといけないのか分かりません。
そもそもお葬式というのは何のためにするものなのでしょうか?

いわゆる葬式というものが、亡くなった後に何かしなくてはいけない「形式」のような意識があるのだろうと思われますが、「形式」というのはそもそも後から出てきたものです。かつては葬式は地域社会が主催していましたので、地域社会では、やり方を一つの形にまとめていきます。やり方が一つになれば慣れることができるからです。しかし形式ができると、どうしても人間は内容よりも形式を重要視する方に変わってしまうのです。

そもそもお葬式の中心は誰かというと、亡くなった人である当人と家族です。ビリーブメントという言葉がありますが、ビリーブメントというのは死別ということです。死別というのは、自分が一緒に生活した非常に親しい関係を結んでいた人と別れること。そして死別することによって生じる感情が悲嘆、グリーフですね。非常に関係の濃かった人とのつながりが強制的に死によって分かたれ、それによって人間は感情的なコントロールを失ってしまいます。ショックを受ける、悲しむ、泣くだけでなく、怒り、感情凍結、抑うつなどさまざまな感情に襲われます。それは異常な感情ではなく、親しい存在を喪失することによって生じる自然な感情です。グリーフのただ中において、死者をどう扱っていくのかということが問題になります。

家族にとっての身内の死というのはどういうことか。医師が「心臓が止まりました。ご臨終です。」と死亡判定しても、それは法律的な死になりますが、そのまま自分の家族の死として受け入れるのは非常に難しいことです。

日本人はどのように死を受け入れてきたのでしょうか。実は、お通夜は昔、一日だけではありませんでした。ある程度、遺体がその状態で保てる期間、その期間は1日とは限らず、場合によっては2日、3日の時もあります。そのお通夜の期間は亡くなった人をあたかも生きている者として扱ったのです。しかし、生き返らず、臭いも出るし、顔も変わる。そこでもう生き返らないと断念し、お葬式をあげたのです。お葬式をあげるというのは死者を死者とする、つまり生者の世界から死者の世界に移すということなのです。生き返ることを断念しておこなったのです。かつては遺族も通夜までは喪服を着ないで日常の衣服のままで、葬式になって喪服を着て、喪に服したのです。

ですから、お葬式をするかしないかというよりも、家族の死をどう迎えて、どう葬るかということが重要であって、お葬式の形態については色々あるのだろうと思います。


Q2.子どもを失くした通夜や葬式で振る舞い酒をしたり御馳走を食べたりするのはとても違和感があります。なぜそのような風習があるのでしょうか?
Q2.
子どもを失くした通夜や葬式で振る舞い酒をしたり御馳走を食べたりするのは
とても違和感があります。なぜそのような風習があるのでしょうか?

これも習慣が独り歩きしたとしか言いようがないです。昔、お通夜で料理やお酒が出ました。 本来であれば真っ先に死者の前にお膳を持っていきます。ごちそうの魅力で生き返ってほしいという気持ちがそうさせたのだと思います。それが習慣化して形だけが残ったところがあるように思います。

通夜にどんちゃん騒ぎをするところもあります。そうすると死んだ人が、この世界は非常に賑やかでいいいな、戻ろうかと思ってほしい。このような意味でどんちゃん騒ぎをしたのではないか。これは『古事記』にもあるので古代からの慣習のようです。

もう一つは死者との共食。キリストのプロテスタントでは聖餐式、カトリックではミサというのがあります。イエスが十字架にかかり死ぬ前に弟子たちと最後の晩餐をしたことを記念しています。生活の基盤になっているのは食事です。つまり一緒に食事をする、というのは人間関係を深めることです。大事な人と別れるには最後に食事を共にして別れよう、ということで葬式の前に食事を共にした、それが慣習化したものです。遺族の気持ちを無視して騒げばいいものではありません。

死者に対する弔い方、表現はそれぞれあります。しかし一番大切にしなければならないのは遺族の思いです。それを無視して形式だけを踏襲し、遺族の気持ちとは関係のないところで騒ぎ立てるのは間違っています。


Q3.子どもを失くした親は火葬場に来てはいけないと言われ、見送ることができませんでした。全国どこでもそうなのでしょうか?なぜこんなことが慣例になっているのでしょうか?
Q3.
子どもを失くした親は火葬場に来てはいけないと言われ
見送ることができませんでした。全国どこでもそうなのでしょうか?
なぜこんなことが慣例になっているのでしょうか?

これも、日本人の習俗の特徴をよく表しています。由来を知らないままに習慣だけを受け継いでしまうのです。

よく順縁、逆縁ということが言われます。順縁は高齢者から順に死ぬことであり、逆縁というのは若い者が年長者より先に死ぬことを言います。祖父母や父母との死別だって厳しいのに、逆縁は非常に厳しいものだという理解があります。子どもを亡くした親の気持ちは大変なものです。火葬場は死体を焼くところです。子どもの身体が焼かれるのは親にとって耐えがたいことだろう。だったら親は火葬場に行かなくてもいいよという配慮が始まりでした。しかし、いつの間にか親は火葬場へ行ってはいけないという禁止する慣習になってしまったのです。

坂本九さんらが亡くなった群馬県御巣鷹山での日本航空123便墜落事故(1985年8月)です。当時、事故の大きな衝撃でバラバラになった遺体が少なくありませんでした。夜の便で乗客にはサラリーマンが多かった。つまり若い女性の配偶者がたくさん遺族になりました。遺体確認をする段になり、ただでさえ突然の配偶者との死別で辛い思いをしているのに、配偶者を悲惨な現場に行かせるのは酷だろうと周囲の人が行かせまいと配慮したのです。収容した遺体は学校の体育館に安置されました。真夏ですから腐敗臭もひどい。部分遺体も多い。それでも、実際に行った人もいました。そしてそのような中で一つ一つ自分の肉親や配偶者を確認した人と、それができなかった人とでは違いが生まれました。現場で確認できなかった人は「死」という現実を自分でなかなかとらえることができず、中途半端な形が続いたと言われます。(野田正彰『喪の途上にて―大事故遺族の悲哀の研究』岩波書店)

「辛かろう」と思うのは他人のする配慮で、いくら辛かろうと、本人が希望すれば火葬場には行かせていいし、むしろ止めるべきではありません。周囲の勝手な判断で当の遺族に死の事実をあいまいにさせることはよくありません。今のグリーフの研究から言えることはこの慣習が間違っていて当の遺族への配慮にはなっていないということです。慣習よりも遺族の気持ちを大切にしなければなりません。

遺族の方が言われて大変傷つくのが、「頑張ってね」「早く忘れてね」という言葉です。阪神・淡路大震災の時に子どもを喪った人に「子どもはまたできるから」という慰めの言葉が言われ、多くの親が傷つきました。これは好意や善意で言っている言葉であるけれども、遺族は自分たちの気持ちを理解してくれていないと思い、大きな反発を生みました。私の知り合いも4人のうち1人の子どもを亡くした時に、街に出ると、慰めようと「まだあと3人いるんだから」「意外と元気でよかったね」とか、たくさんの人に言われ、「少しも理解してもらえない」といたたまれなくなり、しばらく外出恐怖症になってしまいました。

死別の悲しみというのは個別、固有で比較できないものなのに、とかく比較の対象になりがちです。「あなたの奥さんは40歳まで生きられた。私のこどもは3歳で何も人間らしい生活をさせてあげられなかった。あなたの方がまだいいほうよ。」といったように、比べるということをしてしまいがちです。

東日本大震災でも同じようなことが起こりました。高齢者を大津波で喪った遺族が「せめて病院でしなせたかった」という想いを抱きましたが、去年から今年にかけて、東京等の被災地以外で病死した遺族に、慰めとして「津波でなくてよかった。病院で亡くなってよかったね」という言葉が多く聞かれました。これで傷ついた人が多くいました。

死というのは比較できないのです。


Q4.法要って、しなければいけませんか?
Q4.
法要って、しなければいけませんか?

この問題も、しなければいけないかと問われれば、「しなくてもいいですよ、ご自由に」としか言いようがありません。

法事というのは日本ではどのように行うか。まずは四十九日というのがあります。亡くなった日から七日ごとに法事を行い、七×七の四十九日目を特に大切にして、四十九日までの間を「忌中」と言っています。

これはインドから始まった非常に古い儀礼ですが、この儀礼が生き残ったのは、死別直後の遺族の感情を配慮して、遺族が世の中のしがらみから解放され、悲しみ、死者の弔いに専念できるようにという配慮として理解されたからでしょう。ゆえに、しなくてはいけないというものではなくて、配慮が形になってできたのが四十九日なのです。そしてインドの仏教が中国に伝来したことで加わったのが、百か日、一周忌、三回忌です。三回忌までは中国の考え方で、七回忌以降が日本で追加して生まれた習慣です。七回忌の次は十三回忌、その次は三十三回忌。ここまでが13仏事と言われ、一般的に重要だと言われています。あくまでも一般的な話です。

常識的には一周忌までがいわゆる喪中と言われていますが、人によって喪中というのは違います。悲しみの中にいる期間というのは人によって大きく異なるのです。

ただ高齢者が亡くなる場合など一般的には、6年も経過すればだんだん悲しみは「故人を覚える、メモリー」に変化していくことから、七回忌で朱色のろうそくが用いられたりします。しかし、これは一般的な場合です。

戦争中に特攻隊で若くして戦死した人の親、阪神・淡路大震災の遺族、日航機墜落事故の遺族は喪が10年も20年も続くことが実証されています。七回忌を迎えたから喪を終わりにする必要はなく、死者を想うのはいつまでかなどという決まりはありません。

三十三回忌、五十回忌というのは「弔い上げ」の年と言います。よく考えればわかることですが、33年や50年という月日は、普通であれば、亡くなった人を知る、深い関係を持っていた人が世代交代する時です。33年、50年で死者を想うことをやめる、と考えるよりも、死者と生前深い関係をもった人を一生弔い続けていることを意味します。

法事をしなければいけないかというと、それは自由です。私も親友を亡くした時は、家族とは別に七回忌まで、命日には仲間で集まってやりました。法事は死者を想う、想い続ける仕組みであって、いつ行おうと、いつまで行おうとかまわない。しなくてはいけないという義務感で行うのなら、しないほうがよい。しかし、何かしたいと家族が思う場合は、行ったほうがいい。個別に事情が大きく違います。最近は三回忌でおしまいにするケースが非常に増えています。だからといって家族がみな2〜3年で死者を想うことをやめたことを意味しません。


納骨・お墓について
Q1.納骨はしないといけないでしょうか?息子が知っている人がいないお墓に、外に放り出すようで、イヤなのですが・・・成仏しないとも言われますし、迷っています。
Q1.
納骨はしないといけないでしょうか?
息子が知っている人がいないお墓に、外に放り出すようで、イヤなのですが・・・
成仏しないとも言われますし、迷っています。

お墓というものを歴史的に辿ると、日本人は古墳時代のイメージがあるために昔からお墓があるというイメージを強くもっています。しかし古墳というのは天皇や貴族・豪族の墓であって、一般の人はあのようなお墓は持っていませんでした。民衆は、死者をどこかに埋めたり、山のふもとや、海岸線に置いてくることが多くありました。これを風葬と言います。風、つまり葬りを自然に任せるのです。

一般民衆がお墓を持つようになったのは室町時代の後半の戦国時代から江戸時代の中期にかけてです。しかし江戸時代まではそのほとんどが個人のお墓で、何々家の墓というのはほとんどありませんでした。

1896(明治29)年に最初の統計がありますが、日本の火葬率は26.8%でした。東京や大阪、広島や北陸に火葬が見られましたが、多くが土葬です。

明治の末になると、明治民法ができたことにより、家というものが基本的な単位として考えられるようになりました。そしてコレラが大流行したことから、伝染病予防法ができて火葬が推進されたのです。その結果、複数の遺骨を一つの墓石の下に一緒に埋蔵する「家墓」の形態が普及することになりました。

火葬率が6割を超えたのは戦後1960(昭和35)年です。戦後は石屋さんが墓石の下に納骨室カロート(屍櫃からきたと言われますが、ほんとうの語源は不明)なるものを作り、そこに骨壺を置けるようにしました。墓石に家紋が入ったり、お葬式のときに幕や提灯に家紋が入ったのも実は戦後の高度経済成長以降のことです。家紋がつくというのは古い習慣だと思われがちですが、そうではないのです。墓石に御影石のような高価で立派な石が使われるようになったのも高度経済成長期以降です。現在日本の火葬率は99.97%で世界一です。年間125万人の死亡者のうち土葬されるのはわずか300件ほどです。

一般に「お墓」というのは一つずつの墓石からなる「墳墓」といろいろな人の遺骨を納める「納骨堂」の2つの形式があります。墳墓(一般的な「お墓」)のある区域を「墓地」といい、墓地も納骨堂も「墓地、埋葬等に関する法律」(墓埋法)に基づいています。昔は家の庭に作られた墓もありましたが、いまは勝手に墓や納骨堂を作ってはいけないことになっています。

遺骨を埋めるのは許可された墓地に、遺骨を他人に預けるときには許可された納骨堂に、ということは定められていますが、遺骨を家族が持っているのは違反ではないのです。

今、高齢者の二人暮らしが多いです。この場合、一人が亡くなっても納骨はせず、もう一人が亡くなってから一緒にお墓に入れることが増えています。実はそのため、お墓は今、不況になっています。お墓を立てるのが四十九日まで、一周忌までという認識は通用しなくなってきています。ですからあまり気にする必要はありません。私はホームページに、四十九日までに納骨をしなければならないと掲載している葬儀社に直接連絡を取り、除外させました。

要するに、納骨も遺族が納得する時期でいいのです。最近の手元供養のように遺骨の一部を持っていることも、このような考え方から生まれました。関西ではすべての遺骨を火葬後に骨上げ(拾骨)しない部分収骨が多いですし、関東の方ではすべての遺骨を拾います。そもそも考え方が違うのです。他にも3分の1ほど拾う地域もあります。骨壺の大きさが地域によって違います。「遺骨」というのは概念として、火葬後に家族によって拾われた骨です。

納骨は自由になさってください。お墓に対してどのような関係をとるかはそれぞれの問題です。法律的なことで言えば、「墓地」も「納骨堂」も借りているもので、管理料を払う存在です。後々のことを考えれば亡くなった人の骨がどこにあるかわかるようにお墓に入れておくという考え方もありますが、納骨がいつまでという決まりはありません。四十九日や一周忌に合わせて納骨式を行うのは、親戚が一堂に会し、都合がいいからです。


Q2.お墓は何のためにあるのでしょうか?
Q2.
お墓は何のためにあるのでしょうか?

やはり自分の配偶者や親の遺骨を何処かに放置していてはいけないという気持ちからだと思われます。しかし、最近は散骨という形もあります。散骨というのは遺骨を細かく砕き、墓地以外にまくことです。ただし、海に散骨をした人もお墓参りをしばしばしています。散骨したところに近い灯台に行って、お墓参りをするというようなことをします。お墓参りというのは死者との関係づけですから、義務だととらえなければ、これほど自然で自由な人間の心による行いはないのです。


Q3.喪に服すとはどういう意味でしょうか?喪中と忌中は違うのでしょうか?またその期間が決まっているのはなぜですか?
Q3.
喪に服すとはどういう意味でしょうか?
喪中と忌中は違うのでしょうか?
またその期間が決まっているのはなぜですか?

喪中と忌中については先ほど説明しましたように、一番つらい時期のことであって、その期間は人によってさまざまです。


Q4.お供えはもともと誰のためのものなのでしょうか?子どもの法要にビールや洗剤をお供えとして持ってこられると違和感を覚えるのですが。
Q4.
お供えはもともと誰のためのものなのでしょうか?
子どもの法要にビールや洗剤をお供えとして持ってこられると
違和感を覚えるのですが。

お供えの原型は、お通夜にお膳などを出すことです。それが徐々に、遺族が後から使えるものが良いという考え方を基に実際的な物に変わっていきました。それで缶詰などが選ばれるようになりました。戦後の慣習です。死者に供えるものと考えれば、子どもの法要にビールを持ってくるのは違うのではないかと思われます。供物を葬式の習慣ととらえるからおかしいので、死者に供える物と考えれば子どもが死んだときにビールなどという発想は出ないでしょう。最近では「お供物辞退」をなさる方が増えています。

お葬式というのは「点」で考えるとわからなくなります。プロセスで考えなければなりません。そして、自分たちが落ち着いていないときは、お葬式の日にちまでは1日でも多く空けたほうがいいです。ゆっくり死者との関係をとっていくことが必要になります。今はエンバーミングすれば2週間程度は保つことができます。有名なタレントさんのお母さんが亡くなられたとき、エンバーミングして1週間遺体を自宅に置いたそうです。親しい人は1週間の間に訪問して一人ずつお別れしたといいます。お葬式は人を呼ばずに行いました。

今では直葬という形があります。お葬式をしないということです。お葬式をしない、するが問題なのではなく、死者との関係の取り方が問題なのです。たとえお葬式をしなくとも、火葬するまで家族がずっと柩に寄り添っているなら、それは立派な弔いです。また病院で亡くなったらすぐに火葬場の冷蔵庫に送ってしまう。そして自分たちに都合のいいお葬式の日まで放っておく。2週間などの長期間を平気でそのままにしておいてしまう。冷蔵庫に入れているから大丈夫と思うのでしょうか、人間は生ものですから2週間も放置していると、たとえ冷蔵庫に入れたにしろ遺体はひどい状態になります。ですから最後の対面はできるはずがありません。最後に形式としてお葬式をやったとしても、それは弔いではありません。このように遺体に無関心なケースも増えてきています。直葬が良いか悪いかではなく、死者との関係を考えなくてはなりません。

周りにいる人たちにとって一番重要なことは、お葬式の環境を一番いい状態にすることです。 グリーフケアという言葉が最近よく聞かれますが、グリーフケアができるのは死別の悲しみにある遺族にその環境を準備してあげることぐらいです。でもグリーフケアとはそんなに簡単なものではありません。他人ができるのは遺族が悲しむ、嘆くことを邪魔しないことくらいです。実際アンケートでは8割の人がカウンセラー、葬儀社等の専門家によってではなく、家族や近い友人によって慰められています。被災地に「心のケアお断り」の看板が立っていたことがあります。他人が死別の悲しみにある人の手助けには簡単になれない。他人に心の中に土足で入ってくるようなことはしてほしくない。ただ、その人が望むなら、その人の話に付き合って耳を傾けることで、安易な慰めの言葉、アドバイスは不要です。

一番大事なことはグリーフワークです。「喪の作業」「悲しむ作業」とでもいいでしょうか、遺族自身が死者を想う作業です。グリーフワークというのは、亡くなった子どもや、その子どもが生まれてからどういう存在であったのかということを、遺族が心に刻み込むことです。その子どものいのちを遺族の心に復元させることです。これが一番大事なのです。そのために、ブログを書くのもいいですし、日記を書いたり、一人で仏壇に向き合って話すのもいいでしょう。私は父親の遺骨の一部を事務所においています。友人の遺骨も持っています。わからないようにきれいな入れ物に入れて持っています。遺骨は怖いなどと思われますが、他人の遺骨であるがゆえにそう思うのです。親しい人の遺骨であれば怖くはありません。しかしそれが負担になるようであれば納骨をするのがいいです。自分が一緒にいることで、遺骨を側に置いておくことで気持ちが安定するのならば置いておいた方がいいです。これははっきりしています。こうしなければいけないということではなく、各々にとって何が一番いいかということなのです。


2DAY セミナー1日目(8月10日)の感想より

● 病院のチャペルのチャプレンさんに葬儀をしていただけたのが個人的によい体験でした。

これはキリスト教系の病院なのだと思われます。キリスト教系の病院ではホスピスなどに「チャプレン」と呼ばれる病院つきの牧師がおり、医師や看護師とは別に病室を回り、子どもの話を聞いてくれます。お寺でもそういう人がいてもいいのではないかと思います。

チャプレンに葬儀をしてもらうということ、つまり自分たちが知っている宗教者に葬儀をしてもらうと安心します。知らない人にお願いするときは、信頼を寄せていないためにどうなるかわからないという不安があります。そのような場合には、まず自分たちの気持ちを伝えなければなりません。こういうお葬式にしたいという話をしなければなりません。それを聞いてくれないようなお坊さんや葬儀社であればを換えればよいのです。


● 息子を直接知っている人、悲しんでくれる人だけを呼ぶことが難しい。
  親戚も、来たくない人には来てもらいたくない。だから結局みんな呼べない。

そうですね。特に今は家族が小さくなっていますから、従兄弟といっても違う所に住んでいれば他人のような感覚になります。お葬式は一人の人の意見ではなくて、多くの人の意見が入ってきます。それらの意見を全て反映させるのは難しいです。また遺族自身がその渦中でみんなの意見を調整するなんて無理です。そんな精神的余裕はありません。一番いいのは、だれか信頼できる友達を作っておいて、何かあったときにはお願いできるような第三者を作っておくしかありません。そして自分たちにとっていい弔い方は何かを考えます。

最近では、家族だけで葬儀と火葬をしてしまい、1か月ほどの後に、本人を知っている方に案内してお別れの会を別に開くということが多く行われています。当座は自分たちも混乱しており、そこに他人が入ってもどう対処していいかわからないためです。しかし、この方法にも善し悪しがあります。これはお別れの会までお葬式が1か月続くということでもあるのです。それが大変だという人もおられます。

お葬式をしない、家族やごく近い人だけでするお葬式も増えています。すると、四十九日あたりから弔問の方が訪れて、対応に追われる場合もあります。

それが嫌だ、わずらわしかったという人もいれば、良かったという人もあります。煩わしかったという人は1年くらい来客があって大変だった、心の負担になった。いっそう葬式を普通にしておしまいにしたほうがよかった、という人もいます。

家まで来る人は親しい人たちです。その人たちに亡くなった本人の話をじっくり聞けてよかったという意見もあります。

2つに分かれるわけです。一般的にどちらが良いというのは決めることができません。

お葬式の習慣というものは、先ほどから説明していますように、長い時間、年数をかけて定着してきました。元をたどれば地域の人が遺族は大変だろうから、と代わって雑用はするという形で葬式を取り仕切ってくれました。そのうち習慣化して遺族の気持ちと無関係に地域の人が進めてしまう、ということも起こりました。

葬式はさっさと終わらせればいいのではなく、遺族の気持ちを大切にしてお通夜までの時間をとって、そしてお葬式をするという形でやってきました。しかし、これも単に時間、日数をかければいいのではなく、遺族が死者と密度の濃い、質の高いお別れができるか、ということが問題です。時間をかけて弔問の人の接客に疲れはてる、ということもあります。

死別を体験した家族というのは動揺し、不安です。そのためお葬式を家族が取り仕切るというのは非常に大変なことです。家族がしなくてもいいのです。昔、地域がお葬式の準備をしてくれていたのはそういったことに対する知恵なのです。今は地域がそうでないならば、誰かを作っておけばいいのです。信頼できる人に事情を説明して、助けも求めることが大切です。悲鳴をあげたいときには悲鳴を上げてもいいのだと思います。

地方にいる人は地方の葬儀がよいとおっしゃいます。それは地方のほうが地域の中での人間関係ができているということです。

こんなケースもあります。両親を地方において、子どもたちは都会に出てきている。そしてお父さんが亡くなる。お父さんは地域の人たちの中で生活しているのに、帰ってきた子どもたちは地域の関係は面倒だから家族葬にしようと言う。地域の人は全部排除して家族だけでお葬式をする。親からすれば、一番普段関係をもっている人から切り離されてお葬式をすることになります。これはある意味で暴力です。私は「家族の暴力だ」と言っています。お葬式というのは亡くなった人の人間関係によって変わってくるものなのです。それを一つの形に押し込めることはできないのです。


● 息子は、どういう使命、天命をもって生まれてきたのか、まだ、納得できない。
  人を変える力…?影響を与える…??わかりません。

人間のいのちの価値ということを考えてみれば本当にわからないのですが、やはりいのちの価値というのはその人とその人との関係なのだと思います。それは常に固有のものです。だから、その子が自分にとってどうだったのかということを、一日一日思い起こしていくことが大切なのだと思います。それによって初めて自分にとっての価値や意味が分かってくるのだと思います。ある人が言いました。親を失うことは、過去を失うこと。これは有名な言葉です。配偶者やきょうだいを亡くすことは、現在を亡くすこと。子どもを亡くすことは、未来を亡くすこと。その意味では解決のつかない話なのです。気持ちを納得させる解決はないのです。ただし、もしできるとすれば、その子どもが自分たちにとってどのような存在であったかを刻み付けることでしょう。思いを刻み付けるのがいわばグリーフワークだろうと思います。死別した時、人間はショックを受け、不安になったり、抑うつになってしまう場合もあります。自然に受容されるかどうかは誰にもわからない。

怒りという感情が非常に大きくなることがよくあります。グリーフと怒りというのは密接なかかわりを持っています。例えば親の面倒を長女が見ていたとします。次女は時々見に来る程度です。親が死んだとき、妹は姉に、どうして早く病院に連れて行かなかったのか、どうしてあの時こういうことをしてあげなかったのかと、感情的になって怒ります。これは長女の立場からすれば理不尽なことです。妹は自分ができなかったという悔い、後悔が怒りになって表れているのです。そういう形でグリーフ、悲しみを表出せざるを得ないのです。

私も親のお葬式で似たような経験があります。完全に感情のコントロールを失いました。皆さんもそのような思いをしたことがあるかと思います。誰かが少しでも優しい言葉をかけてくれようものなら号泣してしまい、少しでも冗談を言おうものなら大声で笑いだす。その時、私の息子は必死で私のことを止めていました。家族が死んで、自分のコントロールができなくなるのは当たり前です。

また、女性は悲しみを表に出せるけれども、男性は出してはいけないと思ってしまいます。だから葬式の間は男はいかにも実務的できちんとしています。しかし後から聞いてみると、葬式の間のことを何も覚えていないという男性の方は多くおられます。男は悲しみを出してはいけないという考えに囚われてしまうのです。

お葬式では立礼というのがありますが、私は遺族が必ずしもしなくても良いと思うんですね。もしするのであれば、娘の夫といった、近いけれども他人というような立場の人にやってもらうのがいいです。そしてお通夜もお葬式の時も前を向いてやるのがいいです。よくお焼香をする人に失礼がないように参列者側を向きますが、そのようなことをする必要はありません。前を向いていればよいのです。

お葬式は、あくまでも死者のために、残された家族のために行うんだと考えなければなりません。その関係においてどのような弔い方があればよいのかということです。

それから本当に自分のことを支えてくれる人、心を許せる人を作っておく必要はあります。これはひとつの危機管理でもあります。一番わかってくれる人ですね。

お葬式というのは、やらないにしても大変なものです。死後の事務処理というのは非常に大変です。お葬式はこうあるべきだという概念を取り払って、理解してくれる人の中でお葬式をすることが一番正しいでしょう。


今日の私のお話は、納骨は自分が納得するときに行えばよいということ。それでいいと思います。成仏できないというのも周りの人の配慮から生まれた言葉です。いつまでも遺骨を置いておくと死者に気持ちが囚われて、なかなか死者から気持ちが独立できず日常生活に復帰できないのではないかという配慮です。そのために早く納骨したほうがよいのではないかという気持ちからです。しかしそれはそれぞれで異なります。早く納骨して節目の時期にきちんとお墓参りしたほうがよいと考える人もいれば、家に置いておきたいという人がいてもいいのです。そのような人も実際にいるのです。そのようなことを私は考えます。
以上でお話を終わります。

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